そして、1980年代までいっきにタイムスリップ
1979年 6月
宮原のエース53号機牽引の102レ
1983年頃
関西のマニアにはお馴染みの百山
まだ奥の方にマンションはない
1983年5月
20系の編成も今にして思えば長い
これは後ろを撮影
20系ってバックシャンだね(って意味判るかな?)
これはいわゆる救済臨
銀河51号です。
14系12bだが、あんまり人が乗っているような列車ではなかった。
やはり一晩座席は辛いわな
これまた関西のマニアにはお馴染みの塚本
これまた救済臨 銀河52号
たまに東京機関区のスノープラウ台座の無い
若番が入っていた。
この時代、救済臨で東京のゴハチがくるのも楽しみだった。
結構個性のつよいカマがいたからなー
しかし61は殆ど入らなかったと記憶している。
※その割に年末の臨荷レ(みかん臨)にはバシバシ入っていた。
許可を得て撮影
1985年1月1日
珍しく、宮原機関区特製の謹賀新年マークをつけてやってきた。
この年は宮機で3枚の謹賀新年マークを用意して
定期や臨に付けまくっていた。
宮機持ちの列車も銀河、きたぐに(勿論客車)ちくま(勿論客車)
があったので、楽しませてもらった。
臨もゴハチにマークをつけアチコチウロウロしていた。
特製マークを付けた、101レと1D
因みに101レはオサ着8:00で1Dは8:00発であったが
ほぼ101レが早着していたので、この並びは珍しくなかった。
1Dの方だがこの頃は閑散期には減車して9両編成もあったが
多客期は13両のトンでも長い編成だった。
因みに本州では最後のキハ80系列の食堂車営業列車だった。
そして、!Dが出発して編成があらわになる。
102レと505M(だったかな? 夜行の立山ですわ)
夜行の立山もオフシーズンはガラガラ
しかし、夏山シーズンは殺人的込み方だった。
夜行立山は23時過ぎに発車だが、シーズンには
大阪駅の中央コンコースに自由席乗車待ちの列が夕方から
できていた。
あっ そうそう
銀河の話ですね
マークいいでしょ!
スキャナーの取り込みが悪くザラザラになった。